
どのようにして死を乗り越えられるか
どのようにして死を乗り越えられるか
すべての人にとって最も頂点に位置する問題の一つは死です。死は、いつ、どこで訪れるかわからないものです。今この瞬間、若く健康的であったとしても、死を迎える可能性はあります。日々、何時においても人は死ととなりあわせなものです。実際、死はすべての人にとって脅威であり、人自身の力でそれに対抗することはできません。
人にとっての死が何かについて、使徒パウロは次のようにいっています:
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ7:24)
たとえ人がこの世の富や知識をもっていたとしても、それらによって死から救われることはあり得ません。人生を謳歌して亡くなる人もいれば、楽になれずに亡くなる方もいるのです。
人が死ねば、その人の富や知識は無意味となります。裕福であっても貧乏であっても、高学歴でもそうでなくても、人は同じように死に直面するのです:
「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。」(伝道8:8新改)
死を経験しない人などいません(詩編89:48)。なぜなら神によって「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」からです(ヘブライ9:27新共)。聖書にはこう書かれています:
「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)
罪人は神によって死に定められました(ローマ6:23)。しかし、問題をさらに悪化させているのは罪の報酬のための火の池での第二の死が待ちかまえていることです:
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(黙示録20:14新改)
人の富も知識も、裁きの日に火の池での「神の怒り」と死から救い出すことはできません。「主の大いなる日は近い、近づいて、すみやかに来る。主の日の声は耳にいたい。そこに、勇士もいたく叫ぶ。その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、雲と黒雲の日、ラッパとときの声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める日である。わたしは人々になやみを下して、盲人のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからである。彼らの血はちりのように流され、彼らの肉は糞土のように捨てられる。彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができない。全地は主のねたみの火にのまれる。主は地に住む人々をたちまち滅ぼし尽される。」(ゼファニヤ1:14–18)
これが人にとっての一番の問題なのです。罪を犯したことによって死を逃れることができず、それ以上に火の池での永遠の刑罰を受けるからです。これは罪のための「霊的な死」を意味します。
そのため、人は裁きの日に罪のための霊的な死と神の怒りの刑罰から逃れ、死を乗り越えて永遠の命を勝ち取る方法を見出す必要があるのです。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」ローマ5:12新共
神は義と慈悲に満ちたお方です。罪の報酬のために人を死にお定めになりましたが、その憐みのために人が救われるための方法を用意してくださいました:
「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」(エフェソ2:4–6)
人には残された希望があります。神は人が罪から清められて救われるためにご自分の御子を遣わしてくださいました。しかし、この恩恵を受けているのはすべての人ではなく、「キリスト・イエスにある」人だけなのです。
神のみこころの通り、キリストはご自身によって新しい一人の人を造り上げ、罪を犯した人に神との平和を築くための機会をもたらしてくださいました。
「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するため」(エフェソ2:15新改)
このため、人は裁きの日の死から解放されるために新しい一人の人の一部となる必要があります。
新しい一人の人は頭であられるキリストと、その体である教会から成り立っています:
「そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。」(コロサイ1:18)
そして、これがキリストの教会なのです:
「あなた方自身とと、群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は神が御子の血によって贖われたキリストの教会を牧させるために、あなた方を群れの監督者に任命なさったのです。」(使徒20:28 Lamsa)
したがって、人はキリストの教会の一員となることによって、新しい一人の人の一部となり、「キリスト・イエスにある者」となれるのです。キリスト自身が死はご自身の教会に打ち勝つことができないと確かにされました。
「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)
ですから、キリストの教会の一員になることで人は死を乗り越えることができるのです。
死はキリストがお建てになった教会に打ち勝つことがないと約束されたことについて、使徒パウロはこのように説明しています:
「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。」(Iコリント15:51–53)
人の体は朽ちるものであり、年をとって衰えていきます。しかし、キリストの再来の日、キリストの教会の各員の朽ちる体は朽ちないものへと変えられるのです。キリストの再来前に亡くなった教会の各員は永遠の命を授かるためによみがえらされます。このとき、「死は勝利にのまれた」という聖書の言葉が実現します(Iコリント15:54新改)。
ですから、本当に成功したいと望むなら、富や知恵、名声よりも死を乗り越えるために必要な努力を行う必要があるのです。