Share on facebook
Share on email
Share on twitter
Share on pinterest
Share on linkedin
Share on telegram

LANGUAGE

良い行いだけでは不十分である

神に賛美と栄光とをもたらす行いは、人が定めた行いのみで全うされるものではなく、「神が私たちのために(計画された)良い行いを」果たすことで全うされる。

ロイド・カストロより
(By LLOYD I. CASTRO)

(日本語に翻訳:SHUTA UCHIYAMA)

地獄での永遠の刑罰への恐怖と天国での永遠の祝福は、人々にとって美徳の特徴であり良い行いへと駆り立てている。しかし多くの人々は教会の一員となることについて行うべき良いことの一つとしてとらえてはいない。また、自ら進んで教会に入信する、または生まれた時から教会にいるなど、人々にとってはどの教会または宗教も神に属するものであり、それらに属することは良いことの一つであると見なされている。もしくは彼らにとっていかなる教会や宗教の一員であるか否かは神をたたえ救いへの希望をもつために重要なことではなく、彼らが良いとする行いをすれば十分だという考えを持っている。

しかし、このような考えは聖書の教えに反しているだけではなく、使徒たちの教えにも真っ向から反対するものなのである。一般的に考えられているようなただ単に良い行いをすれば救われると言う思想はあからさまに間違いなのである。使徒パウロは、人は自らの力だけでは良い行いをすることができないと、彼自身がローマのクリスチャンらに宛てた手紙で記述しているからだ:

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:18 新改訳)

人には良い行いを実行する力がない
使徒パウロは自分自身に対してそう言ったのではなく、すべての人に対し、良い行いをしようという願いがあってもそれを実行できないと述べたのである。それがなぜなのかを彼はこのように述べている:

「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」(ローマ7:22-23 新改訳)

アダムから始まって、人は神の律法を拒み、罪の律法が人を支配してきたのである。罪の奴隷であり弱いというのが人の本質となったのだ。義人であれども監獄から自由の身というわけではないのだ。知恵に富んだソロモン王はこう言っていた。「この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。」 (伝道者の書 7:20 新改訳).

いかにして人が自らの行動に注意していても、考えたり正しいと思うことをしていても、失敗したり、誘惑に負けたり、後悔したりする。だから罪を犯すのである(ヨハネ第一3:4)。人の基準では義とされても、神の基準ではそうでない。だからキリスト以外の人は全て罪を犯したのである(ローマ3:10-12, 23; ペテロ第一2:21-22)。そのため、この世のすべての罪人は神の裁きを免れられないのである:

「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」(ローマ 3:19 新改訳)

神はご自分に従わないすべての人を裁きの日に火によって裁くと定められた(ペテロ第二3:7, 10)。そのため、人が正しいと見なす行いをしていても、それは救われるための基準にはなりえないのである。そうでなければ、まるで神がその人に支払いをしているようになるからだ:

「いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。」 (ローマ 4:4 口語訳)

救いとは恵みであり、支払いではない。神はどのような人にも、彼らが良い行いをしているという理由だけで救いをお与えになるのではない。むしろ、人は神に対して債務があり、それは人が自身の力だけでは義となれず、罪のために死という報酬を支払わなければならないからである(ローマ6:23)。そのため、人は第二の死と呼ばれる火の池での刑罰を受けるのである(黙示録 20:14)。

神を喜ばせる行い
人が良い行いを止め、悪いことに目を向けるのであれば、それまでにしてきた良い行いは裁きの日に無意味なものとなる。当然、良い働きには大いなる価値がある—この人生においても、他人から見ても、社会的に見てもだ。 神に栄光をもたらす良い行いをするための方法についはすでに述べたように、お気づきのはずだ。コロサイの信徒へ宛てた使徒パウロの手紙で、彼が祝福を見出した者だと主張している。使徒パウロは次のように述べた:

「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。」 (コロサイ 1:10 口語訳)

使徒パウロのこの言葉はとても刺激的であり、人があらゆる良いわざを行って実を結ぶためには「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせる」ことが重要である。しかし、彼は人は自らの力では良い行いができないと述べた使徒とは別の人物であろうか?人はどのようにして良い行いができるのか?実を結ぶことができる良い行いとは何なのか?使徒パウロはこのことについて明確にしている。彼は当時のクリスチャンたちに対してこう述べた「イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」 (フィリピ 1:11 口語訳)。

キリストを通してのみ果たせること
神に賛美と栄光とをもたらし、義の実を結ぶ行いとは、主イエス・キリストを通してのみ果たせることである。これは人の基準によって定められたものではなく、「神がわたしたちのために定められた(事前に計画された)ことを行うことである」(エフェソ2:10 Amplified Bible; テトス3:5)。また主イエス・キリストはご自分に結ばれるもしくは繋がれることの重要性についてこう教えておられる:

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」  (ヨハネ 15:4-5 口語訳)

木から切り離された枝は実を結ぶことができないのと同様に、人はキリストから離れた状態では実を結ぶことができない。したがって、キリストに属する人々のみが義の実を結ぶことができるのである。キリストは彼に属する人々がどのようにして彼の枝になったかについて次のように説明しておられる:

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」 (ヨハネ 15:16 新改訳)

つまり、キリストを主であり救い主として受け入れ、キリストを信じるだけでは、真のキリストの者とは言えないのである。キリストによって選ばれたのだということを証明しなければならない。キリストの民こそ、神に仕えるようにと任命され、一つの体すなわち教会に召された者たちである (テサロニケ第二 2:14; コロサイ 3:15; 1:18)。キリストは木でありその体の頭であられる。そして彼によって選ばれた人々—枝とされた者たちこそ—キリストの教会のメンバーたちなのである(コリント第一 12:27; ローマ 16:16)。

キリストの教会の一員となることこそがたった一つの道であり、父の御前に義のわざを行うことができるのである。なぜなら、キリストの教会にいる者だけがキリストとの関りを有しているからである (エフェソ 5:31-32 AMP)。一方で、キリストの教会の外で行われている神への奉仕と礼拝は、それらをいかに熱意と関心とをもって行っていたとしても無益である。 これが、人はキリストの体の一部もしくはキリストの教会の一員でないかぎり、キリストとの真の関りを持つことができない理由なのである。

キリストの教会の中のみに
人の良き行いが神に受け入れられるのは、その人がキリストの教会の一員であった場合のみである。彼の良き行い、すなわち神のみこころへの服従は、良い結果をもたらし、その人の魂を聖めるのだ (ヨハネ 17:17; ローマ 7:12)。その人はキリストによって聖く、恥なき者とされるのである (エフェソ 5:26-27)。

主なる神はキリストの教会のメンバーによって行われる奉仕と礼拝を大変重要なものと見なしておられる。なぜなら、彼らはキリストの血によって贖われたからだ。使徒パウロは次のように述べている:

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。…この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エフェソ1:4, 7 新改訳)

キリストがその身を犠牲にして贖われた者たちは罪の赦しを受け、罪の束縛から解き放たれた者たちなのである。キリストによって罪の代価を支払われたがゆえに、裁きの日の神の罰から免れることができるのである。彼らは罪の奴隷から解放され、義を働く神に仕える者となったからだ。

多くの人が信じているのとは真逆に、すべての人がキリストに贖われたわけではない—キリストの教会のみである。使徒パウロは教会の長老たちにこのことについてこう言った:

「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は神が御子の血によって贖われたキリストの教会を牧させるために、あなた方を群れの監督者に任命なさったのです。」(使徒言行録 20:28 Lamsa Translation)

人はキリストの教会の中にいてこそ、キリストの贖いによる恩恵にあずかることができるのである。この贖いにより、人は神に属するものとなり、この終わりの時代の神の民に加わることができるのである。キリストが唯一贖われたものは、彼が従える教会である (エフェソ 5:24)。このため、教会の外に贖いはない。外にいる人々はキリストの体に属するものではないがために、キリストは彼らの罪を贖われないのである。彼らは彼らの罪の代価を、第二の死という永遠の刑罰を通して支払わなければならないのである。従って、そのような人々が良い行いをしても無意味に終わるのである。これが使徒たちの言う、人は自らの力では良い業、義を行うことができないという意味なのである。

この事実は、多くの人々を傷つけたり怒らせたりうるかもしれない—しかし、これは真実なのである。そのため、その人がキリストの体、すなわちキリストの教会(Iglesia Ni Cristo)の一員になることでキリストに結ばれた者となれる事実を理解すれば、きっとその痛みや恨めしい思いは晴れるはずである。人はまず、偽りの信仰をすてなければならない: (1) 教会の一員になることは必要ないという考え (ただ単にどんな教会にでもと入信するのではなく、真の教会に入ることが最重要である) ; (2) すべての教会は神のものであり、 どんな教会にでもいいからと言ってそれに入り、良い行いをしていれば救われるという考え (神の御前に正しいと見なされる行いは、真の教会の中でのみ果たせるものであり、それによって救いを確かにできる)。

Iglesia Ni Cristoのメンバーらがすべてにおいて正しいことを行う理由の一つは、この真理に対する確固たる信念からなり、礼拝集会に熱心に参加し、神から賜った様々な役目を、布教活動や啓発活動、祈りをするための場所の清掃や管理などその他もろもろの行事に取り組むきっかけとなっている。彼らはそれらの活動に倦むことなく、最期の瞬間までその義務を果たし続けるならば、主の再来の日に救いを確かにすることができるという希望をもっているのである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事はのPasugo: 神の知らせに掲載されていた記事より抜粋したものである。

 
 
Share on facebook
Share on email
Share on twitter
Share on pinterest
Share on linkedin
Share on telegram